それ以外の特筆すべきトピックといえば、今年の1月にBUCK-TICKになぜかはまってしまったことくらいでしょうか。
そうです。ネームバリューはあるけれど、周りにファンが見当たらない(勝手な印象ですが)大物バンド、BUCK-TICKです。
高校生のとき図書館で『COSMOS』を借りて聴いて、「おお、かっこいいじゃん」とは思ったものの、過去に遡って作品を探ってみたり、新譜を追いかけたりはしなかったのです。今考えると、その時から追いかけておけば・・・!と思うのですが、自分の中でBUCK-TICKを理解できるようになるにはこの歳にならなければならなかったのだと、思います。だから後悔はしていない。
『異空-IZORA-』のリリースを、どんな作品になるのだろうと期待と不安入り交じりつつ、待ち焦がれた日々。アルバムを聴きながらツアーがやってくるのを、ライブで異空を体感するのを待つ日々。幸せでした。ライブの最中も幸せでした。3階席のセンターブロック最前列で、ノーストレスで5人を見られて、至福でした。腰を痛めているので、二時間立ちっぱなしか・・・とちょっと心配もあったのですが、最前列ゆえ、座ったまま、しかもノリノリで参加することができました。
櫻井さんの太腿のセクシーゾーンがチラリとのぞきながらも、はおりもので隠すこともなく、見せつけまくりで面白かった。50歳過ぎてガーターベルトやニーハイブーツで太腿を見せるの変態ですね、と何かで言っていた櫻井さん。確信犯なのか・・・!まあ確信犯じゃなかったらあんな格好しないよね。ナルシストではないけれど、自分のビジュアルの美麗さを的確に把握している。それにしても、LUNA SEAのSUGIZOもガーターベルトで太腿見せつけてるけど、顔面が美しい人は太腿を見せつけるのは、あるあるなのだろうか?他に例となる人はいるのでしょうかね。
[ここまで、6月の下旬から7月下旬にわたって書いたものに加筆修正しました。以下は10月下旬から11月11日にかけて書いたものです]
遅まきながらBUCK-TICKを好きになれて良かった、と、思います。櫻井さんが亡くなったことも、悔しいし淋しいし、やるせないけれど、悲しくはないのです。信じられない、信じたくないという気持ちもあります。でも、人はいつか必ず死ぬし、それが早くやってきてしまったというだけのことなのだと。まだ57歳だよ。脳卒中のリスクが高い中年ではあるけれど、早すぎるよ。本人も自身が死んでしまうなんて思ってもみなかっただろうに。ツアーでたくさんの観客に会いにいくと思ってたはずだよ。でも、悲しくはない。悲しむのはご家族やメンバー、スタッフほか、近しい人、本当に長い間BUCK-TICKと自分より深く櫻井さんを愛していたファンの方々だと思う。新米ファンの私だって悲しんでもいいだろうけど、自分自身でその資格はないと思っている。
今井さんがインスタグラムに添えたメッセージで、永遠に5人で演奏できると思っていたけど、それが不可能だということも分かっていました、(勝手に要約してすいません)と言っていました。私も、失礼だとは知りつつも、35年続けたバンドがそのままで活動し続けることは、限界があるとも覚悟していました。誰かが病気、事故、けが、なんらかの窮状に陥って、バンドから離脱せざるを得ないときがやってくる日がいつか来る、のだと。でも、それがこんなに早くやってきてしまうとは、想像していませんでした。
今はまだ、櫻井さんのいないBUCK-TICKは考えられない。でも、今井さんが続ける、と言ってくださっているので、何らかの形で続けてくれるのでしょう。そのBUCK-TICKを受け入れたい、と思っています。愛すべき残されたメンバーが活動してくれるなら、ついていきたい。でも、櫻井さんの不在に自分は耐えられるだろうか。櫻井さん以外の新しいボーカリスト?メンバーが楽器を持ちながらボーカルと兼務する?
いずれにせよ、もう櫻井さんの新しい歌声を聴くことはできない。ライブで聴くこともできない。櫻井さん以外の誰かが歌うこれまでの名曲を素直に聴くことができるだろうか。
全日程中止となったツアーのライブ会場に、グッズの物販と櫻井さんへのメッセージを寄せ書きができるようになっているそうです。これまでの自分だったら絶対にこういう場に足を運ばなかったでしょう。でも、今回は、チケットが払い戻された分だけグッズを買うことでBUCK-TICKに還元したいという思いがあります。また、今回の訃報で、他の人と比べたらどうこうじゃなく、自分の中でどれだけ櫻井さんが大切な存在だったかを改めて認識したことから、自己満足かもしれないけど、メッセージを届けたいなと強く思いまして。
セレモニーは参加できないことが確定してしまい、かといって中に入れなくても会場に行くという強者みたいにはなれず、当日はおそらく家にいると思います。遊んだり買い物したりする気にもならないので。
BUCK-TICKが好きな気持ちは変わりません。メンバー個人も応援したいと思っています。櫻井さんがいないのが淋しいのはしょうがない。当たり前だ。前向きに、現実から目を逸らさずにいたい。辛いけれど、太陽とイカロスの歌詞「悲しくはないこれで自由だ」「悲しいけれどこれで自由だ」というフレーズにある通り、自由になった櫻井さんの冥福を祈っています。悲しみという感情は未だに自分の中に湧いてこないけれど、それだけは確かなことだ。そう言える。
櫻井さん、ファンになって短いし、ファンクラブにも入っていないけれど、とても充実した10か月間でした。すごく楽しい時間を過ごさせていただき、本当にありがとうございました。どうか、安らかに。
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キャリア初期に出された『いつか猫になる日まで』の主な登場人物たちが二十代の若者なのだけれど、その五十代バージョンを編集者から提案されて書き上げた作品だそうです。SF色が濃いものの、読み終えたらファンタジーの余韻が漂う感じでした。主な登場人物についてひとりずつ書き出していきたいと思います。
大人がメインキャストなので、それぞれ背負うものがあるところは共感できます。教師になって間もない佐川逸美は二十代前半と思われますが、教師としてのプライドが社会人のそれと通じていて、未熟さも垣間見えながらも、生徒という守るべきものを持った大人なのです。
大原夢路は、彼女の語りからお話が始まるし、重要な行動を起こすにもかかわらず、最終的には存在感がそれほど残りませんでした。主婦として、親の介護などで苦労を重ねてきた経験がリアルだなァとしみじみしてしまいました。
関口冬美は、夢路の親友。姑に縛られた生活を過ごし、現在は孫の面倒を一手に受けています。あまり登場する場面が少ないからか、印象は薄いです。でも、逸美の引率する生徒を助けることになったきっかけが彼女なので、重要人物です。
村雨大河は登場人物中最高齢の初老なのに、行動や思考だけみると天真爛漫な若者のような印象を受けます。謎の存在・三春ちゃんと渡り合ったり、格好いい姿も見せてくれました。
氷川稔も家庭を顧みないわけではないけど、息子の存在とうまく向き合うことができないでいます。でも、不慮の事態に巻き込まれて、つい協力的に関わってしまい、無視しきることができないのも気がいい証拠。
物語のあらすじを書けないのは、うまく要約できないから。それぞれのキャラクタの視点からのストーリーが交差しながら話が進んでいくので、ざっくり言うと、地震で一時停止した地下鉄の西武有楽町線の車両の中が、物語の主な舞台。そこに居合わせた人々の群像劇。彼らが、夜、夢の中で車両の中の過去が再現されてしまうという事態が起こってしまう。なぜ、夜の夢に閉ざされたのか、彼らは手探りで解決しようとする・・・。なんて、簡素なあらすじしか書けないです。
あと、蛇足かもしれませんし、ネタばれになるかならないか解らないですが、『・・・・・絶句』の「異質なもの」的存在が三春ちゃんなのかなー、と思ったりしましたが、違いましたね。
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昭和のベルばらは初めて見ました。2000年以降のベルばらに慣れていたので、結構びっくりする描写があったのです。
まずはロザリーの書き込みの丁寧さ!育ての母が亡くなるところから、貴族である実の母ポリニャック夫人と再会するところ、オスカルを慕うところ、全くといっていいほど2000年以降の公演ではカットされていて、逆に新鮮でした。このロザリーなら娘役トップが演じてもやりがいがあるのではないでしょうか。現在のロザリーは娘役トップに相応しくない見せ場のないしどころのない役です。
あと、「アンドレとオスカル」というサブタイトルがついているのに、アンドレとオスカルの幼年期やジャルジェ将軍と家族が説明口調でオスカルについて語るシーンがないことも、びっくり。あと、オスカルが近衛兵から衛兵隊に転属する場面も、荒くれた衛兵たちがオスカルに心酔していく場面もないのはどうしたことでしょう。
個人的にはポリニャック夫人を演じる神代錦に惹かれるところが多いので、出番がそこそこあってよかったです。男役が演じる女役の醍醐味があって。男役をやっている映像って残っているのだろうか?1989年に在団のまま亡くなっていて、最後の出演作は専科公演のストレートプレイ『花供養』だと思われるのだけれど。それ以外、後期は出演頻度が少なくなっているので、上演する作品すべてを映像に残しているとは思えない時代なので、映像が現存することを信じてみたい。
オスカル安奈淳とアンドレ榛名由梨の演技は、さすが昭和のベルばら、前年の初演に続く再演で、説得力があるなァと思いました。上原まりのマリー・アントワネットは気高さは感じられるのだけれど、圧倒的な何かは感じられなかった。フェルゼンが松あきら。なんとなくそんなもんかと捉えられる存在でした。アントワネットに比肩する役であるロザリーの有花みゆ紀は初めて今回の視聴で存在を知りました。娘役としては組でどんな存在だったのかな。準路線でもなければ、こんな大事な役ふられないはず。ウィキペディアでもこれを書いている現在、載っていなくて、調べようがない。可憐な感じで儚げな印象を持つ娘役さんでした。
]]>脚本:宮藤官九郎
出演:斉藤由貴、及川光博ほか
DVDボックスをお借りして視聴いたしました。貸していただいたAさまありがとうございました。ボックスのデザインが遊び上手で、素敵なアイテムとなっております。
語り手(というか夏目漱石の声役)の本田博太郎がおいしすぎるよ。過剰な演技、過剰な存在感、北京原人Who are you?は黒歴史なのかむしろ誇りなのか解らない感じなど、最近本田博太郎にツボを押されている私としては、15年前のこの作品の本田節もツボなのでした。
それも込みで、いやー、楽しかった! エンタテインメントとして完成度が高く、ひたすら面白い。役者陣も見事にはまり役。竹下景子は意外な配役だったけど、案外コメディエンヌなのですね、すごく飄々とした可愛らしい姑役がとてもお似合い。矢名家の夫婦、とぼけた主婦のみどりと漱石が乗り移ったときのギャップも愛らしい斉藤由貴と、軽薄なところもありつつ王子感が抜けきれないところも含めて夫のたかしを誠実に演じた及川光博も良かった。
漱石の乗り移った「ワガハイ」が周囲の人々に自然に受け入れられてるところ、娘のまゆみからも「ワガハイ」呼ばわりされてしまうところは、何でもありだけど細かな演出でどこかしらにリアリティを感じられる物語になっていた。
そして、よく考えると、十五年前の作品なのに、古さを感じない。スマホは流石にないし、携帯もゴツイ。もし、このドラマが企画されたのが令和三年の今だったら、ツイッターやインスタグラムとかキャッシュレスなども取り入れるだろうけど、根本的なテーマがどっしりしているからうまく成功するだろう。
みどり漱石が女性誌に連載を持ち、作家としてデビューして、そこそこ売れるというのは非現実的だなァとそこだけご都合主義が目立ってしまっている気がした。
みどりとたかしが大学のミュージカル研究会出身ということで、劇中に入ってくる歌はもっといっぱいあっても良かったのに。と思った。モンナシーヌ、魚は目を開けて眠る、シュールな歌詞が素敵でした。
みどり漱石が巻き起こすハプニングの数々によって、娘のまゆみ、息子のじゅん、古本屋の向かいのクリーニング屋でたかしの幼なじみのやすこ、やすこの夫ひろしらへの愛着がわいてくるので、最終話の古本屋の茶の間での全員集合シーンは感動した。
女性タブンの編集者・小松を演じた岡田義徳が十五年の時間を感じさせないくらい変わってないのに驚く。先日テレビで見て、結婚して子供もできたのに変わらないナーと思っていたところだったので、今の若さというか貫禄のなさを痛感させられる。
たかしの妹のももえの夫・柴田が再ブレイク前の有吉弘行、CM制作会社の若手社員(ADか?)が桐谷健太と、今や人気者の若き日を見られたのも貴重でした。有吉は猿岩石時代から通じてあまり変わっていないものの、桐谷健太はちょっとチャラくて小汚い感じが今とは別人のような変わりよう。
最後、これ以上みどりの体にいることを良くないと思い、家族、町の人々、その他多くの人々に「遺書」を大量に手書きして残し、みどり漱石は姿を消してしまう。
最終話は本田博太郎が登場し、重要な役回りを演じる。ラストシーンに至るまで、見ていて幸せになれるドラマだった。
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ベルばら2001のオスカルアンドレ編は何度も映像で見た。NHK総合の深夜にやっていたものを録画したんだ。稔幸オスカルと役替わりアンドレは香寿たつきのコンビだった。役替わりは東京のみ香寿のほかは樹里咲穂と湖月わたるが演じたらしい。香寿たつきの色気のある存在感にアンドレはぴったり適役だったように思えた。この作品は東京公演が宝塚大劇場公演より先に上演され、この新人公演はつまり、東京公演を経ての二度目の公演となる。
毎回ベルばらを観るたび思ってしまうのだが、プロローグの小公子と小公女の語りは必要なのだろうか。物語の導入として、夢の世界へ現実からつれていく役割があるといえばそれまでだが、なくてもいいと思えるのだよな・・・。
主演のオスカル役は真飛聖は、持ち味としてはワイルドさもあると思うので、アンドレでも似合うように感じた。けれど、その荒々しさを具えたオスカルはとても清々しく見られた。トップ娘役は本公演ではマリー・アントワネットだったので、出番も少なかった(その他のオスカルとアンドレ編に比べると出番は多いとはいえ)。本役の星奈優里はサヨナラ公演だったので、それなりに配慮はされていた。新人公演では配慮はされなくても構わないはずだが、出番など、配慮されていたと思う。柚希礼音演じるアンドレは、若手で抜擢とはいえ、真飛聖の相手役として遜色ない演技をしていた。
新人公演で一幕にするためにカットされた場面はなくてもなんとかなるものだと思うのだけど、ジャルジェ将軍や夫人、その娘たちが花を摘むシーンが始まった!と思ったら違うベルサイユの貴族の娘たちが春の到来を喜んでいて、ジャルジェ将軍たちが出てこなかった。少年時代のオスカルとアンドレも出てこないのは少し淋しかった。オスカルの死で幕切れなのも、ちょっとさっぱりし過ぎかも。ガラスの馬車に乗ってふたりが天国で結ばれるシーンはやはり欲しいなと思う。
カーテンコールでの真飛聖の主演者挨拶が可愛かった。ちょっと焦って言葉が適切に出てこないのは舞台人としてはどうかと思うが、新人公演ならご愛嬌。とても初々しくて良かった。
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千秋楽の映像でした。
オスカルが生まれる場面は初めて見るパターンでした。アンドレが説明口調で、古傷のせいで目が見えなくなってきたと語るのもこれまであったかもしれないけど、あそこまで説明台詞なのはこれまでなかった気がします。緒月アランも滔々と一人語りするし。説明口調一人語りが多いのはベルばらの、というか脚本演出の植田御大のこだわりなのかもしれないけど、他のベルばらと比べても今回はそれが目立つ気がします。
朝夏まなとアンドレは役替わりで緒月遠麻も演じていたそうです。それはそれで凰稀かなめオスカルとの相性は良かったと思うし、見てみたいですね。でも、朝夏アンドレは演者の陽性の持ち味を抑えて、暗い情熱を演じていて、それが素敵でした。
緒月遠麻は組配属、組替え、タイミングなどが合えばトップにもなれたと今でも思うのですが、トップスターになることがすべてではないとはいえ、その点では恵まれなかったのかな、と。同期の凰稀かなめと同時退団というのは幸せな結末だったのだと信じたいです。
凰稀オスカルはとにかく美麗。凛としたなかにある弱さも魅力的に演じていたと思います。前年の雪組に特出でオスカルを見事に体現していたのと、大千秋楽で役として生きるのにこなれてきたことなど、要因はいろいろとあるでしょうが。
できれば朝夏オスカル、凰稀アンドレも見せてほしかった。凰稀かなめの芯のある佇まいや、憂いも帯びた美貌はアンドレでもいけると感じるんです。でも、緒月オスカルというのはさすがに男らしすぎて役に合わないので無理な気がします。やってみたら案外いけるのかもしれませんがね。
公演の最後に退団者の挨拶なるものが収録されておりました。名前だけ知っていた人、全く存在を知らなかった人、六人の退団挨拶が興味深かったです。宙組の五人と、専科の一名。専科の一原けいさん、お名前だけは存じていましたが、ここ最近はあまり登板していなかったような気がします。専科生の退団までの使われ方としては、未沙のえるさん、星原美沙緒さん、立ともみさんなど、休みがないんじゃないかと感じるくらいの登板回数の人気者と、ほとんど特出されないかたに別れますよね。一原さんは元気に挨拶されていましたが、舞台に立つ頻度は本人の希望で少なかったのか、作品に呼ばれる機会が少なかっただけなのか、どちらだったのでしょうか。調べてみると、一原さんは14年間で8回の特出。そのうち3回が大劇場公演。3回のうち2回がベルばらでマロングラッセ役。5回の別箱公演というのも多いとは思えません。そんなに少なくはないのかなァ。今の専科さんでいうと、汝鳥伶さんとか出ずっぱりなイメージがあります。宙組から路線スターで専科に入った北翔海莉さんも引く手あまたで、大忙しだったなァ、などと関係ないことばかりを思い出してしまいますなあ。
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ラジオドラマで音声だけの劇だけど、当てはまるカテゴリがないので「映像」に分類させていただいた。
宙組元トップスターの大空ゆうひが主演を務めるというので、聞いてみた。
K-POPの熱狂的なオタクとして活動しているが、会社ではそれを隠している。その生活の中、ある日突然それまで好きだった曲やアーティストに熱くなれないことに気がついてしまう。それが主人公のヒトミ。母の手術のため実家に帰り、瀬戸内海のフェリーに乗ったヒトミは、高校時代同じフェリーに乗り合わせていた佐和子と再会する。
佐和子役は元雪組のスター彩吹真央。ふたりとも自然な感じが魅力的でした。
佐和子は実は死んでいて、ヒトミにしか見えないという設定。娘を思う亡き母でもある。
1時間という限られた時間で、少人数で紡がれる物語。
なんてことのない日常と非日常が交差して、突飛な設定もさらりと耳に馴染んで、抵抗なく頭に入ってくる。結末もそんなに劇的ではないけれど、淡い余韻を残して素敵だった。
]]>断崖のアルテミス─恋愛物語─(中) 波多野鷹 集英社コバルト文庫 1990年12月
断崖のアルテミス─恋愛物語─(下) 波多野鷹 集英社コバルト文庫 1991年3月
これは恥ずかしくなるほど恋愛ものです。コバルトでSF、ミステリ、ファンタジーなどでなく、ただひたすらに恋愛をテーマにした青春小説って初めて読むかもしれません。初期コバルトの青春小説にはありがちなのかもしれないけど、90年代に入ってこれは珍しいように思います。波多野氏のコバルトにおける今のところ最後の作品。あとがきにはまだ書きたいことがあるみたいなことは言っていますが、残念です。三冊ともカラー口絵が入っているということは、編集部の期待も大きかったのではないかと推察しますが、長くひとつのレーベルで書き続けることは難しいのでしょうね。どんな人気シリーズもうまく着地できず、途中で終了してしまったりもしますからね。長く続いて完結するケースもありますけれども。
身体が弱く、そのせいで留年して二度目の中学三年生活を送っている麻里香。家庭の事情で一人暮らしをしている。偶然出会った不良といわれる神崎玲をいつしか想うようになる。いつしか逢瀬を重ねるようになるふたり。意外と気が強いけれど、神崎の存在が麻里香の猪突猛進な部分を倍化しているような気がする。教師に反抗的な態度をとったり、神崎のために自分が夜の繁華街にいたことを告げたり。
個人的に好きなのは、停学中に麻里香が祖父母の家に逗留しているところ。神崎がやってきてときめいちゃうところは勿論、おじいちゃんおばあちゃんの佇まいも素敵でした。
博習館シリーズの他の作品で、神崎らしき生徒がプロの危険な長期取材についていったという記憶があるので、神崎と麻里香はハッピーエンディングにはならなさそうだけど、中途半端なところで話が終わってしまってそれは残念。ふたりが別れるシーンはちゃんと描いてほしかった。著者があとがきで書いてあるので仕方ないのでしょうが。
博習館の未読作品は、『伝説のティンクルダンス』と『純愛のデカダンス』、両方とも総務委員会物語ということで、比べて読んでみるのも楽しみです。
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いやあ、美しい作品だった。朝夏まなとの求心力、緒月遠麻の迫真の演技、伶美うららの息をのむ美しさ、それぞれの繊細な演技。哀しい物語ではあるのだけれど、悲劇ではない。
ブラームスの若き日、シューマン夫妻との心の交流が美しく描かれている。誰も悪くない。ブラームスがクララ・シューマンに惹かれていくのも、横やりや不倫ではなく、自然の流れとしての必然であり、クララのシューマンへの強い想いも繊細な描写で表現されていた。ブラームスとクララの別れの接吻もまた、哀しくも美しいものだった。
主要キャストではないけれど、凛城きらの「ベートーヴェン?」が印象的だった。ブラームスが舞台から客席から退場するときもさりげない存在感が、よかった。
遅まきながら、伶美うららの歌声を聴くのが初めてでした。各所で酷評されているので覚悟して見たのですが、何か感情が乗っていて、下手ではないと思う。演出の上田久美子がこだわりで、彼女の声域に合わせて曲を作らせたのではないかと邪推するほど、自然だった。
上田久美子の力量は流石だな、というほど物語に込められた人間ドラマ、隅々までのキャラクタの個性が書き込まれていて、見ていてノーストレス。
緒月遠麻の病が進行していく演技は怖いくらいだった。すみれ乃麗のルイーゼは冒頭と終盤に老い役もあって、若い頃の芝居とうまく緩急がとれてきていたように感じた。各所に散りばめられたお馴染みのピアノ楽曲も楽しめて、面白かった。
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二十年以上ぶりの再読。内容はほとんど覚えていない、というか初めて読んだ当時も流し読みでよく解らなかったので、今回はじっくりと難解な禅についての対話のシーンも解らないなりに読み通してみました。
物語の芯は、仏教。禅を中心に僧侶がいっぱい出てきます。物語の筋も、ミステリ要素もすっかり忘れていたので、まるで初読かのように読みました。坊主がいっぱい死にますね★ なんか全体の物語のイメージカラーが灰色と黒で、モノクロームで世界を把握してました。明慧寺自体はカラフルなのかもしれないけれど、そこを行き来するお坊さんのイメージが禅問答に励む白黒なのですよ。仙石楼でさえモノクロで見てました。
『姑獲鳥の夏』とリンクするところもあって、感慨もありました。分厚い文庫を持つ手もそんなに辛くなく、あっという間に読み終えることができました。前回読んだときにはただひたすら「長い」ことに挫けそうになっていて、やっと完読した記憶があります。待古庵今川が今作では一番のお気に入りです。神奈川県警の山下警部補も壊れっぷりが好きなんですけど。榎木津の活躍もいつもながらで嬉しい。関口も相変わらず事件の中では何もしていない感じがたまらないのです。京極堂の憑き物落としも物語の本筋ではありながら事件の核心では行われず、とある登場人物の憑き物を落としただけで、それも意外でした。明慧寺でのクライマックスもドラマティックで、謎が解かれていく様も痛快かつ切ないので満足でした。
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一、限界突破の七変化 恋之介旅日記
二、氷川きよしコンサート 2020 in 明治座
千秋楽の一つ前の公演、前楽を観賞することができました。驚いたのは、その日の午前の部を観た人、翌日の千秋楽を観る人、それぞれ手を挙げてーと司会の方が問うたら、視界に入るほぼ総ての人が手を挙げたこと。私のような一見さんはマイノリティでありました。一階席だったからでしょうか。一階前方の席を「きよシート(おまけつき)」と名付けて売っていたので、そこに氷川きよしを贔屓にするマダムたちが一席おきに座っていたのでしょう。毎日通うだけの経済力があるのか、無理くり金を捻出しているのか、すごいなあと思いました。
芝居のほうはコロナ対策でか暗転が長いなあとか、偉い人が手拭いを顔に覆うことを流行らせようと野望を抱いたり、その他感染防止でソーシャルディスタンスをとる演出が解りやすくあるところが楽しかった。姫君の身代わりとしてキーちゃん(氷川氏本人指定の愛称なので敢えて使う)演じる恋之介が豪華な着物を身にまとい、ノリノリで女装していました。
あと、宝塚ファンとしては、娘役トップまで登りつめた渚あきの扱いが悪いんでないかい、と。確かに品と格が必要とされるお役でしたし、それは見事な美貌と演技力で役をものにしていました。今回、パンフレットの出演者の紹介ページの順番で、座長キーちゃん、二番目格、三番目格、アンサンブルとなっています。大きさも座長が2ページと二番目が大きくて1ページ、三番目から3分の1ページと小さくなる。渚あきは三番目の一番最初。でも、そんな扱い寂しすぎるよ! 二番目の中に入れられなかったのだろうか? 川野太郎や山村紅葉が二番目なのは納得だけど、野際陽子と千葉真一の娘・真瀬樹里が役もおいしいとはいえ二番目なのだよ? 何度も言うようだけど、宝塚のトップ娘役ですよ? そういえば、十年くらい前にNHKの時代劇で渚あきが出ると聞いて見たのだった。全体的に明度の低い、暗いシーンが多かったのだけれど、そのうっすらとしか顔の見えない役で、扱いも悪かったのを思い出した。それに比べれば今回の舞台では地味ではあるけれど活躍できていたように見えるので、まあ満足。
二部のコンサートは「箱根八里の半次郎」、「きよしのズンドコ節」、「限界突破×サバイバー」などヒット曲を新旧取り混ぜて披露してくれたキーちゃんも凄かったが、ファンのお嬢様がたも凄かった。サイリウムの域を超えた、そこそこの大きさのハートの形で、色とりどりに発光する物体を舞台に向けてかざす人々が少なからずいたことにびっくり。恋之介とかきよしとかいう文字もその発光体には認識できました。結構な値段がしそうなのですし、芝居が恋之介じゃなくなったら使えないじゃないですか。いや、使うか。恋之介自体は今回の公演が二回目だそうです。これからも恋之介がシリーズ化されるとしても、年齢を重ねると演じられなくなる役柄だとは思うので、「私は恋之介のころからキーちゃんを見ている」アピールで使うのか。
司会で、芝居でもネタ要員で出演していた西寄ひがしなる人物も認識できました。圧が強いので、いろんな意味で活躍してほしい。お笑いなのか、癖のある役者としてなのか、それともプロの司会者としてなのか、なんでもいいので世にもっと出てほしいなァ。
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世界観がかなり独特なので、苦手なかたにはお奨めできないけれど、素敵な一編。厚めで長めな話で、決して短くはないのだけれど、読後感は、短編を集中して読んだかのよう。
「ねこ」と呼ばれる少年の視点から語られる物語は、遠いどこかの国で暮らす人々の生活のありようを描いている。当たり前だけど、それがとてつもなく奇跡的な出来事であることを的確についている。ねこは周りの誰よりも体が大きく心臓がよくない。周りの人にも一線を引かれている。とはいえそれをコンプレックスにすることなく、用務員さんのスクラップブックにひそんだ世界中のがらくたみたいな記事に夢中になったりもする。祖父がティンパニーを演奏する楽団の王様であるゆえ、打楽器を演奏したりもする。ねこの声が打楽器になることもある。吹奏楽団を一流に育てた祖父と、用務員さんの作曲したオリジナル曲のおかげで、コンクールで優勝することができた。
中学三年生になったねこの進路は、遠い町にある音楽学校。指揮と作曲を学ぶこととなる。離れていた間に、故郷ではひと騒動起きてしまう。ねこはねこで、学校の授業の方針についていけない。偶然出会った盲目のボクサー“ちょうちょおじさん”との出会いによって、学校では経験できない新たな音楽の世界を知ることになる。おじさんと盲学校時代の友人のチェロ弾き、その養女で色盲の“みどり色”・・・。
麦ふみクーツェという存在の謎も最後に解ける。
不思議な存在であることには変わりないけど、でも一体なにものであったかは明らかになっている。
いしいワールドに酔いながらひたすら読み進める時間は心地よいものだった。登場人物の呼吸が、彼らの生と死が、悲喜劇として作品の世界のあらゆる存在そのものを祝福してくれている。演奏される様々な曲は想像するしかないけれど、物語を豊かに盛り上げている。
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平成のベルばら、初めて拝見しました。安寿ミラオスカルのほかにも真矢みきオスカル版もVTRが残っているようで。でも、安寿ミラオスカルはマニッシュだけどフェミニンという芯のある絶妙なオスカルっぷりでよろしゅうございました。話にはよくうかがう朝香じゅんさまアンドレも麗しく格好いい姿で、ファンの方はさぞや・・・と思う次第です。
稀代のダンサー大浦みずきのために、ダンスシーンを追加して「踊るフェルゼン編」となったと聞いております。ところどころに踊りがちょっとずつ入るのかな、と思っていたら、比較的序盤でがっつりショーっぽい場面があるきりでした。あの時間を絞りだすことができるのなら、もう少しアントワネットの出番を・・・! もっとひどいバージョンもあったけど。フェルゼンとアントワネットの出会いの仮面舞踏会は初めて見たけど、あったほうが二人の恋路に説得力が出るので、平成のベルばらより後でも残しておいてほしかったな。2001のフェルゼンとマリー・アントワネット編は見てないからどっちだか解らないけど、それ以降は多分カットされていると思うので。
ろくでもないフェルゼンだけど、大浦みずきがやるだけで場が締まるというか、とても魅力的に見える。華やかで妖しい色気も出ている。植田歌舞伎も堂に入って、それがまた映えることったら。ひびき美都は顔の造作が丸っこいので、庶民的な美人さんて感じ。気高いオーストラリアからフランスにお輿入れした女王としては説得力に欠けるかも。ロザリー似合いそうだな・・・。
あと、フェルゼンが帰国を国王に報告する謁見のシーンがめっちゃ質素だった・・・。すごく華々しいこれぞベルサイユ宮殿!といった衣装を着た貴族たちが大勢で国王を敬うというイメージだったので、以前はあっさりと王の部屋で四、五人くらいしか出ていなかっただったことに驚いた。
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ジェローデル、アラン、ベルナールの各人を主役に据えたベルばら外伝三部作の集大成としてアンドレ編がつくられた・・・と当時の記憶。表現は違ったかもしれないけど、四部作といったほうが良くないか?と思ったのは確か。
そして、平成のベルばらではアンドレ編というバージョンがあるにもかかわらず、敢えて外伝で上演するのはどうなのか?
それはともかく。冒頭からアンドレとその幼なじみのマリーズが話すフランスのプロヴァンス地方の訛りが、福岡あたりの方言になっていたけれど、これは植田御大のセンス?誰のアイディア?「しとっと?」とか、日本の九州地方の訛りがフランスにおけるプロヴァンスなのであろうか。
どうにせよ、疑問がわくところの多い作品です。フェルゼンが出番の少ないちょっと目立つ程度の役で真野すがたが演じているのだけれど、正直いらない役だったなァと思いました。オスカルにアントワネットとの別れを進言され、逆ギレしてオスカルに「君になじられるのが辛い」的な独白をさせておきながら、次の登場場面ではアントワネットとの別れを決意し、オスカルに挨拶もせずに別れると言ってフランスを去るのです。逆ギレから別れまでに何らかのきっかけはあったと推察されますが(メルシー伯爵の進言とか)、それは語られることはない。得意の説明台詞でも語られない。なんか思い付きでスウェーデンに帰った印象を受けてしまう。アントワネットを出さないのならフェルゼンも出さなくてよいのではないか。それともやはり、オスカルの想い人ということで、アンドレとの対比がされるので必要だったのであろうか。
で、外伝でアンドレ編をする意義はあったと思う。オスカルの比重が低くなる分、アンドレのオスカル以外の人間関係が描かれていて、良かったと思う。といってもマリーズとマロングラッセぐらいなもんだけど。アンドレがオスカルの決意を知りながら、マロングラッセのたっての頼みをきいて、ブイエ将軍にオスカルがパリに進駐するのを配置換えすることで止めようと願い出るところは、「それはないだろ〜」と引いてしまった。でもよく考えると、オスカルの命を救いたいという気持ちと、マロングラッセの強い思いが、アンドレを行動させたのだろうけれど、死をも恐れないオスカルをベルサイユに留めることができないことは、アンドレも知っていたはず。アンドレをダメもとでブイエ将軍の邸宅に訪れさせたのは、マロングラッセのオスカルに対する愛情と、アンドレのマロングラッセへの愛情が人一倍強かったからなのだろうなァ、と考えると切ないエピソードではある。ただマリーズと再会するための都合だったら、嫌だな。
]]>沙央くらまオスカルは硬質で、本役の朝海ひかるの背中を見ているなァ、と感じました。主演娘役であるはずのロザリーも、本公演では存在するトップコンビという制度がないので、晴華みどりの歌のうまさと可愛らしさを押し出すことができ、出番の少なさもストレスフリーだった。
フェルゼンとアントワネットが本公演同様、登場しないのでオスカルアンドレのエピソードに集中できる。オスカルとアンドレ編は2013年の月組の新人公演もそうだったけど、演出がうまいからなのだろうか、新人公演なので割愛したシーンもあったはずだけども、気にならなかった。ベルばらはいろいろなエピソードの組み合わせで出来ているから、どこを外してどこを使うかの選択で作品の出来が決まるというのは、新人公演のみならず本公演にもいえると思う。
凰稀かなめのアンドレは暗い情念みたいなものを感じさせて、いいアンドレだった。緒月遠麻のアランも血気盛んだが妹思いというツンデレぶりも勢いがあってこの後の活躍を暗示しているかのよう。メインキャストじゃないのだけれど、愛加あゆのルルーにびっくりした。当時、本人も六年後にトップ娘役になるとは想像もしていなかったでしょう。とにかくおちゃめで可愛い。
凰稀かなめアンドレは堂に入った感じ。役替わりでいろんな本役を見てきたからだろうか、それとも当時から男役芸が確立できていたのだろうか。
当時、沙央くらまは劇団が爆推ししていた憶えがある。雑誌とかにも出ちゃって。月組に組替えして、しばらくして専科生となるとは誰が想像できよう。凰稀かなめはその後星組に組替えし、短期間で今度は宙組に組替えし、トップスターになった。トップスターになるな、という劇団の気概が感じられる生徒がままいる。これを書いている現在では永久輝せあとか。沙央くらまも当時はそんな感じだった。いつの間にか別格スターになられてしまって。宝塚の専科にも幅が出てきて、別箱で主演公演をするような路線系スター、路線から別格スターになり各組の公演に華を添えるスター、映像の世界で活躍するためにおそらく一時的に専科に籍を置くことになったスターなど、脇を固める芸を極めたお姉さまばかりではなくなった。トップオブトップの轟悠の存在も大きい。
話が逸れてしまったけれど、ベルばらの新人公演は歌唱力に不安がある出演者が歌うところもままあるが、総じて質が高い。主なキャストには初々しさを感じることが少ないというか。ベルばら独特の芝居ができる組で然るべき時に上演しているのだろうか。マリー・アントワネット生誕250周年記念とかでもやってたからそうでもないのかな。エリザベートのタイトルロールを適任者がいないといって、他組の若手男役を抜擢するようなところだからな。ベルばらはチケットも取りづらいし、オリジナル新作のほうがありがたいけれど、やっぱり観たいと思わせてしまう魔力はある。そろそろ演出に大胆な解釈を加えてもいいのでは? 前にも書いたかもしれないけれど。
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